この記事の目次
米国事業を展開する上で、海外の優秀な人材をいかに確保するかは、多くの経営者にとって重要な課題です。その選択肢の一つである米国の就労ビザ「H-1Bビザ」制度が、今、大きな岐路に立たされています。元Googleエンジニアの内部告発を発端に、その歪んだ構造が明らかになり、さらにトランプ政権が発表したH-1Bビザ新規申請料金の 10万ドル(約1500万円)への引き上げという衝撃的な政策が、業界に激震を走らせています。
この動きは、単にアメリカで外国人を雇用するコストが上昇したという単純な問題ではありません。巨大テック企業とスタートアップの競争環境を根底から覆し、ひいては米国の技術的優位性そのものを揺るがしかねない、構造的な変化の始まりと言えます。本記事では、このH-1Bビザを巡る一連の動きが日本企業の経営に与える影響と、そこから得られる教訓について解説します。
1. H-1Bビザ「10万ドル」の衝撃:対岸の火事ではない米国の人材コスト高騰
1-1. H-1Bビザ制度とは?米国事業の生命線を支える仕組み
H-1Bビザは、米国の企業が専門的技能を持つ外国人労働者を一時的に雇用するために使用する、最も一般的な就労ビザです。公式には「高度に専門的な知識の理論的・実践的応用」を必要とする職務、いわゆる 専門職(Specialty Occupation)に従事する人材を対象としています。
特にIT業界では、世界中から優秀なエンジニアや研究者を確保するための重要な 経路として機能しており、シリコンバレーの成長を支える生命線とも言える制度です。多くの日本企業も、米国法人で専門人材を雇用する際にこの制度を活用しています。
1-2. なぜ突然10万ドルに?政策の背景と本当の狙い
2025年9月19日に署名された大統領令による10万ドルへの料金引き上げは、大きな波紋を広げました。この政策の背景には、H-1Bビザ制度が本来の目的から逸脱し、 安価な労働力の供給源として利用されているという批判があります。
トランプ政権は、多くの企業が国内の労働者を見過ごし、より低賃金で雇用できる外国人労働者に置き換えるためにH-1Bビザを悪用してきたと指摘。実際、ある調査によれば、H-1B労働者を雇用することで、企業は同等の米国人労働者を雇う場合に比べて、エントリーレベルの職で 36%もの人件費を削減できるとされています。
この政策の狙いは、こうした「賃金アービトラージ(裁定取引)」を防ぎ、本当に高度なスキルを持つ、価値の高い人材にのみビザが利用されるよう誘導することにあるとされています。しかし、この急進的な変更は、企業の規模によって全く異なる影響を及ぼすことになりました。
2. 経営判断の分岐点:巨大テックとスタートアップで明暗が分かれる理由
2-1. 大手企業が「歓迎」する真意:コスト増を乗り越える経営体力と戦略
驚くべきことに、Netflixの創業者リード・ヘイスティングスやOpenAIのCEOサム・アルトマンといった巨大テック企業のリーダーたちは、この10万ドルの料金化を公に支持・歓迎しています。
ヘイスティングス氏は「素晴らしい解決策」と評価し、これによりビザが本当に価値の高い仕事にのみ使われるようになると主張しました。アルトマン氏も、プロセスが合理化され、経済的インセンティブが明確になることは良いことだと述べています。
彼らにとって10万ドルという費用は、優秀な人材を確実に確保するための 管理可能な投資に過ぎません。むしろ、これまで抽選に頼らざるを得なかった不確実性がなくなり、豊富な資金力で他社に先んじてトップタレントを確保できるため、競争上、有利に働くと考えているのです。
2-2. スタートアップにとって「死活問題」となる財務的インパクト
一方で、スタートアップのエコシステムからは悲鳴が上がっています。著名なインキュベーターであるYコンビネータのCEO、ゲイリー・タン氏は、この政策が「スタートアップを潰す」ものだと激しく非難しました。
初期段階のスタートアップにとって、10万ドルという費用は年間収益の10%から20%に相当する可能性があり、「財政的に実行不可能」なレベルです。大手企業のように潤沢な資金を持たない彼らにとって、この政策は優秀な外国人材を獲得する道を事実上閉ざすものであり、事業の成長を阻害する深刻な障壁、まさに死活問題となるのです。
2-3. 制度の抜け穴?「契約社員」としての違法雇用のリスクと代償
正規のビザ取得が困難になる中で、一部のスタートアップは制度を回避する「裏技」に手を染めている可能性が指摘されています。その一つが、海外の人材をリモートの「契約社員(contractor)」 として雇用し、実態は 「正社員(full-time employee)」として扱うという手法です。
これにより、企業はビザ取得のコストと手間を回避して安価な労働力を確保できますが、これは従業員の 誤分類(misclassification) にあたる違法行為です。もし発覚すれば、未払いの税金や社会保障費、残業代の遡及支払いに加え、多額の罰金を科される可能性があります。
公式なルート(フロントドア)のコストが非現実的なレベルまで高騰した結果、企業が違法な裏口(バックドア)に流れ込むという状況は、制度そのものが機能不全に陥っていることの証左と言えるでしょう。経営者としては、こうしたショートカットがいかに大きな法的・財務的リスクを伴うかを認識しておく必要があります。
3. H-1Bビザ問題から学ぶ、グローバル人材活用の光と影
3-1. 「安価な労働力」確保という本音と人件費コントロールの実態
元Googleエンジニアの告発によれば、多くのH-1B労働者が就いていた業務は、高度な専門性を要するものばかりではなく、「ボタンを作ること」といった基本的な作業が中心だったとされています。これは、制度の建前とは裏腹に、 代替可能な労働力を安価に確保するという目的でビザが利用されている実態を示唆しています。
実際に、大手テック企業が数万人の米国人従業員を解雇する一方で、数万人規模のH-1Bビザ承認を得ていたという事実は、人件費コントロールという経営上の動機が強く働いていることを物語っています。
3-2. 従業員の依存構造が生む「現代の年季奉公」という経営リスク
H-1Bビザ制度の最も根深い問題は、労働者が雇用主に完全に依存してしまう構造にあります。ビザ保持者は、解雇されると短期間で国外退去を迫られるため、非常に弱い立場に置かれます。
この状況は、元Googleエンジニアによって 「現代の年季奉公(modern indentured servitude)」 と表現されました。実際に、Meta社では国外退去の恐怖から不本意な異動を余儀なくされた従業員がいたことや、Groupon社ではマネージャーが意図的に部下の永住権申請を妨害した事例も報告されています。
このような従業員の過度な依存は、短期的な人材コントロールには有効に見えるかもしれません。しかし、長期的に見れば、従業員のエンゲージメント低下やコンプライアンス違反、訴訟といった深刻な経営リスクにつながる危険性をはらんでいます。
3-3. 米国テック大手が示す、新たな人材獲得の勢力図
かつてH-1Bビザの主要な利用者は、インドのITアウトソーシング企業でした。しかし、2025年のデータでは、Amazon、Google、Microsoft、Metaといった米国の巨大テック企業がスポンサーランキングの上位を独占しています。
これは、グローバルな人材獲得の主戦場が、外部委託から、巨大企業による人材パイプラインの「内製化」へと完全に移行したことを意味します。彼らは制度を戦略的に活用し、世界中から人材を直接集め、自社の中核的労働力を構築しているのです。この勢力図の変化は、今後のグローバルな人材獲得競争が、こうした巨大プラットフォーマーとの直接対決になることを示しています 。
4. 日本企業が取るべき針路:米国市場の変動から得るべき3つの教訓
今回のH-1Bビザを巡る一連の混乱は、米国で事業を行う、あるいはこれから目指す日本のビジネスオーナーにとって、貴重な教訓を与えてくれます。
4-1. 教訓1:海外の法規制変更が事業に与えるインパクトを予測する
今回のビザ料金の引き上げは、政治的な決定が、ある日突然、企業の採用戦略や人件費構造に致命的な影響を与えうることを示しました。海外で事業を展開する上では、現地の法規制や政治動向を常にモニタリングし、それが自社の経営に与えるインパクトを シナリオとして予測・準備しておくことの重要性が浮き彫りになりました。
4-2. 教訓2:人材の多様性と依存リスクのバランスを取る
特定の国籍やビザに依存した人材構成は、今回のような制度変更によって一気に不安定化するリスクを抱えています。ペンシルベニア大学ウォートン校のヘルナンデス教授が指摘するように、H-1B労働者のような高度人材は、新たな雇用を生み出す 「乗数効果」を持つ重要な存在です。
しかし、その一方で、依存度が高まりすぎるとリスクも増大します。国籍や採用チャネルの多様性を確保し、 リスクを分散させる人材ポートフォリオを構築することが、持続可能な経営には不可欠です。
4-3. 教訓3:グローバルな競争優位性を維持するための人材戦略とは
H-1Bビザ問題は、もはや単なる「ビザの問題」ではなく、 グローバルな人材獲得競争そのものです。巨大テック企業は資金力を武器に、制度の変更すらも自社の優位性に取り込もうとしています。
こうした環境下で競争優位性を維持するためには、コストだけでない、自社独自の魅力を高める必要があります。それは、挑戦的なプロジェクト、良好な労働環境、キャリア成長の機会、そして公平で透明性の高い人事制度かもしれません。グローバルな視点で自社の「人材に対する価値提案」を再定義することが、今まさに求められています。
5. まとめ
H-1Bビザ制度を巡る混乱は、理想と現実の乖離、そしてグローバルな人材獲得競争の厳しさを白日の下に晒しました。元Googleエンジニアの告発が示したように、この制度は夢を求める米国人卒業生と、安定を求める外国人労働者の双方を苦しめる歪んだ構造をはらんでいます。
10万ドル(約1500万円)への料金引き上げは、その矛盾をさらに増幅させ、巨大企業には有利に、スタートアップには不利に働くことで、イノベーションの担い手である挑戦者から機会を奪いかねない危険な状況を生み出しています。
日本の経営者にとって、これは対岸の火事ではありません。グローバル市場で戦う上で、人材こそが最も重要な経営資源です。海外の法規制の動向を注視し、リスクを管理し、そして世界中の優秀な人材から「選ばれる」ための戦略を構築できるか。H-1Bビザ問題は、私たちにその重要性を改めて問いかけているのです。
参考情報
- 米国 – 外国人就業規制およびビザ、在留許可、永住権の取得に関する情報 – ジェトロ ( https://www.jetro.go.jp/world/n_america/us/invest_05.html)
- トランプ政権の置き土産:H-1Bヴィザをめぐる攻防 ( https://www.spf.org/jpus-insights/views-from-inside-america/20201211.html)
- Shocking twist: Computer Science grads face one of the highest unemployment rates today (https://m.economictimes.com/news/international/us/gen-z-unemployment-rate-2025-computer-science-grads-face-one-of-the-highest-unemployment-rates-today-latest-job-market-news/articleshow/123418021.cms)
- Restriction on Entry of Certain Nonimmigrant Workers (https://www.whitehouse.gov/presidential-actions/2025/09/restriction-on-entry-of-certain-nonimmigrant-workers/)
- American companies laid off over 40,000 US tech workers, replaced them with H-1B visa holders: White House (https://www.hindustantimes.com/world-news/american-companies-laid-off-over-40-000-us-tech-workers-replaced-them-with-h-1b-visa-holders-white-house-101758431251767.html)
- H-1B visa: Meta sued for alleged hiring bias in favor of foreign workers on H-1B visas (https://m.economictimes.com/nri/work/meta-sued-for-alleged-hiring-bias-in-favor-of-foreign-workers-on-h-1b-visas/articleshow/118571152.cms)
- Penalties for Misclassifying Employees as Contractors (https://remote.com/blog/contractor-management/penalties-misclassifying-employees-contractors)
- H-1B Specialty Occupations (https://www.uscis.gov/working-in-the-united-states/h-1b-specialty-occupations)
- Netflix co-founder Reed Hastings endorses Trump’s controversial H-1B fee, calls $100k fee a filter for top talent (https://etedge-insights.com/featured-insights/geopolitics-and-strategy/netflix-co-founder-reed-hastings-endorses-trumps-controversial-h-1b-fee-calls-100k-fee-a-filter-for-top-talent/)
- Garry Tan on H-1B Visa Fee Impact (https://recruiter.daily.dev/resources/h1b-visa-fee-impact-tech-industry)
- How the New $100K H-1B Visa Fee Impacts the Tech Industry (https://builtin.com/articles/h1b-visa-tech-hiring)
- The H-1B Temporary Skilled Worker Program (https://www.migrationpolicy.org/article/h-1b-temporary-skilled-worker-program)
- H1BGrader – H1B Visa Reports (https://h1bgrader.com/)
- Wharton’s Exequiel Hernandez on the H-1B Visa Changes (https://time.com/charter/7321190/exequiel-hernandez-h1b/)
この記事を書いた人
 
              ビッグテック最前線.com / 編集部
Submarine LLC
Editor Team