ビッグテック最前線.com / 編集部

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この記事の目次

世界最大のコーヒーチェーン、スターバックスが既存店売上の減少という危機に直面し、これまで推進してきた効率化の象徴であるモバイルオーダー専用店からの撤退を決定しました。次の一手は、テクノロジーではなく「人間」への750億円という巨額投資。なぜ彼らは、デジタル化の流れに逆行するかのような戦略に舵を切ったのでしょうか?

本記事では、すべてのマーケターと経営者が自社の顧客体験(CX:Customer Experience)とブランド戦略を見直すためのヒントを探ります。

1. 序章:スターバックスが直面する「効率化の罠」と750億円の賭け

1-1. 既存店売上減少が示すブランドの危機

スターバックスが重大な岐路に立たされています。近年の決算では、グローバルでの既存店売上が減少傾向にあり、ブランドの足元が揺らいでいることが示されました。新規出店により全体の売上高は維持されているものの、個々の店舗の収益力が低下していることは、ブランドが構造的な問題を抱えている証左と言えます。

特に深刻なのは、売上の大半を占める本拠地・北米市場での苦戦です。この財務状況の悪化は、単なる一時的な不振ではなく、これまでの戦略が見直しを迫られていることを物語っています。

1-2. 「便利さ」の追求が失わせたもの

スターバックスのブランド価値は、高品質なコーヒーだけでなく、「サードプレイス(家庭と職以外の第3の居場所)」という心地よい体験によって築かれてきました。しかし、近年推し進められてきたDX(デジタルトランスフォーメーション)と効率化の追求は、皮肉にもそのブランドの魂を希薄化させる一因となっていました。

その象徴が、モバイルオーダー&ピックアップ専用店の展開です。利便性を極限まで高めたこの業態は、スターバックスが長年培ってきた「人間的なつながり」「温かみ」とは相容れないものでした。結果として、効率化の追求が顧客体験を画一的なものにし、ブランドの魅力を損なっていたのです。

2. デジタル時代の誤算:なぜZ世代向け「ピックアップ専用店」は失敗したのか

2-1. CEOが自ら認めた「経営の誤り」とその背景

「残念ながら、数年間経営を誤っていました」。2024年9月に就任したブライアン・ニコルCEOは、過去の戦略の過ちを率直に認めました。彼の言葉は、効率を追い求めるあまり、ブランドの根幹である人間的なつながりを軽視してきたことへの痛烈な自己批判です。

この率直な反省から、全国に約80〜90店舗存在したピックアップ専用店の閉鎖・転換という大胆な決定が下されました。これは単なる戦術の変更ではなく、スターバックスがブランドの哲学そのものを取り戻すための、象徴的な一歩と言えます。

2-2. Z世代が本当に求めていた「温かみ」というインサイト

ピックアップ専用店は、本来デジタルネイティブであるZ世代のニーズに応える戦略でした。しかし、スターバックスの分析によって驚くべき事実が明らかになります。ニコルCEOは、「若い消費者が以前考えられていたよりも多くの温かみを求めていた」と指摘しました。

デジタルが当たり前の環境で育った彼らだからこそ、その対極にある本物の人間的なふれあいや、リアルな場所での心地よい体験に価値を見出していたのです。このインサイトは、「効率性こそが顧客満足度を高める」というデジタル時代の通説を覆すものであり、スターバックスが大きく戦略の舵を切る決定的な要因となりました。

3. 処方箋は「人間投資」:新戦略「Green Apron Service」の全貌

3-1. 750億円の投資先は「バリスタが顧客と向き合う時間」

業績回復とブランド再建のため、スターバックスが打ち出したのが「Green Apron Service」と名付けられた新戦略です。今後1年間で5億ドル(約750億円)以上を投じるこの計画は、バリスタの象徴である緑のエプロンを冠し、事業の中心に再びホスピタリティを据え直すという強い意志を示しています。

この巨額の投資の主な使途は、バリスタの労働時間を増やし、効率化のプレッシャーから彼らを解放することです。これにより、バリスタが顧客一人ひとりと向き合う時間を確保し、人間的な交流を創出することを目指します。

3-2. テクノロジーの役割再定義:人間を支えるためのDXへ

この戦略は、決してテクノロジーを否定するものではありません。むしろ、その役割を「人間を支援する役割」へと再定義する試みです。

例えば、新たに導入される注文管理システム「SmartQ」は、モバイルオーダーの複雑な処理を自動化し、バリスタの負担を軽減します。これによって生まれた時間と心の余裕を、さらなる効率化ではなく、顧客とのコミュニケーションという付加価値の高い活動に振り向ける。これは、テクノロジーが人間を代替するのではなく、人間にしかできない温かみのあるサービスを可能にするための、まさに「人間中心のDX」です。

3-3. 「サードプレイス」復活への物理的投資と店舗改装計画

ソフト面の改革と並行して、ブランドの原点である「サードプレイス」を物理的に復活させるための投資も行われます。2026年末までに1,000店舗を改装し、「居心地の良い椅子、電源、そして大きなテーブル」を再導入する計画が進行中です。

ピックアップ専用店を閉鎖し、座席を確保した新しい店舗設計を標準とすることも、スターバックスが単なるコーヒーの販売店ではなく、人々が集うコミュニティの拠点であり続けるという決意の表れです。

4. グローバル戦略の試金石:世界市場は「人間回帰」を受け入れるか

4-1. 【中国市場】価格と利便性の覇者「ラッキンコーヒー」との思想的対立

スターバックスの「人間回帰」戦略は、すべての市場で通用するとは限りません。特に、第2の市場である中国では、現地の巨大チェーン「ラッキンコーヒー(瑞幸咖啡)」との厳しい競争に直面しています。

ラッキンコーヒーは、アプリを駆使した徹底的な効率化と低価格を武器に急成長したブランドです。そのビジネスモデルは、スターバックスが捨て去ろうとしている「利便性」の追求そのもの。プレミアムな「体験」を売るスターバックスと、便利な「商品アクセス」を売るラッキンコーヒー。この思想的に対極な両者の競争は、スターバックスのグローバル戦略にとって大きな課題となっています。

4-2. 【米国市場】新たな体験価値を提示する「ダッチ・ブロス」という挑戦者

本国アメリカでは、ドライブスルーに特化した新興チェーン「ダッチ・ブロス(Dutch Bros.)」が若者を中心に急速に支持を広げています。彼らの強みは、物理的な空間の快適さではなく、「Broistas(ブローイスタ)」と呼ばれる店員との、ほんの数十秒のポジティブで人間味あふれる交流にあります。

ダッチ・ブロスの成功は、若い世代にとってのプレミアムな「体験」の定義が、長居できる快適な空間から、取引の「瞬間」における本物の人間的交流へと変化している可能性を示唆しています。スターバックスの店内回帰戦略が、この新しい価値観にどう応えていくのか、市場は注視しています。

4-3. 【日本市場】グローバル戦略のヒントは「超ローカライズ」の成功にあり

世界的にスターバックスが苦戦する中、日本法人は突出した好業績を維持しています。その成功の鍵は、画一的なグローバル戦略とは一線を画す、徹底したローカライゼーションにあります。

「ほうじ茶&キャラメル クリーム フラペチーノ」のような日本ならではの商品開発、地域の特性を活かした唯一無二の店舗設計、そして「おもてなし」の文化に根差した高品質なサービス。日本の成功は、ブランドのコアバリューである「人間的なつながり」が、トップダウンの指令ではなく、各地域が持つ文化への深い理解と、現場への権限委譲によってこそ最大化されることを示しています。これは、グローバル戦略を再考する上で極めて重要な示唆を与えています。

5. 考察:スターバックスの戦略転換からマーケターと経営者が学ぶべきこと

5-1. 顧客体験(CX)におけるデジタルとリアルの最適なバランスとは

スターバックスの事例は、デジタル化が必ずしも優れた顧客体験に結びつくわけではないという教訓を示しています。特に、ブランドの核が「モノ」の提供だけでなく「コト(体験)」にある場合、リアルな接点での人間的なやり取りは、デジタルによる利便性以上に重要になり得ます。自社のビジネスにおいて、デジタルとリアルがそれぞれどのような役割を担うべきか、その最適なバランスを再定義することが求められます。

5-2. 効率性の先にある「感情的価値」の重要性

コスト削減や時間短縮といった効率性は、多くの業界で差別化要因になりにくくなっています。その中で顧客から選ばれ続けるためには、「温かみ」「つながり」「心地よさ」といった「感情的価値」を提供できるかが鍵となります。スターバックスが750億円を投じて取り戻そうとしているのは、まさにこの感情的価値であり、あらゆるビジネスにおいてその重要性は増していくでしょう。

5-3. ブランドの原点回帰を成功させるための組織変革と人材戦略

壮大なビジョンも、現場で実行されなければ意味がありません。スターバックスは、巨額の投資に加え、内部からのリーダー登用を積極的に進める方針を掲げています。これは、ブランド哲学を深く理解した人材を育成し、従業員が主体的にホスピタリティを発揮できる組織文化を醸成する強い意志の表れです。ブランドの原点に立ち返るためには、こうした地道な組織変革と人材への投資が不可欠です。

6. 結論:スターバックスの挑戦は「人間中心DX」時代の幕開けを告げる

スターバックスが下した「ピックアップ専用店の閉鎖」「750億円の人間投資」という決断は、単なる一企業の戦略転換に留まりません。これは、テクノロジーと人間の最適な関係性が問われる現代において、社会全体の大きなうねりを象徴する出来事です。

最高のテクノロジーとは、人間を置き去りにするものではなく、人間にしかできない「人間らしさ」を最大限に引き出すために活用されるべきではないでしょうか。スターバックスの壮大な実験は、その答えを見つけ出すための長い旅の始まりであり、「人間中心DX」という新しい時代の幕開けを告げているのかもしれません。

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